ひとみしょう 作 『世界が変わるとき』第10話
―――それは、一人の女性の成長物語―――ユカイノベル
世界が変わるとき ~自分に自信がなかったわたしが自信を持つまで~
ひとみしょう 作
最終話「きっと大丈夫」
最小限の荷物と、最大限の母性本能を引っさげて、わたしが大阪のヒロシの住むアパートにたどり着いたのは、深夜0時を少し回った頃だった。
わたしはその気になれば、黙って部屋を出て行ったヒロシを責めることができる立場にあった。でも彼のことを責めるのはやめようと思った。
人のことを責めるなんて、淋しい人のすることだ。わたしは淋しくない。ヒロシという朋友に再会できてうれしいのだ。だからわたしはヒロシの住むワンルームマンションのインターフォンに向かってこう言った。
「ヒロシ、ただいま」
「お帰りやなあ……優子ちゃん、早かったやんか、どこにも寄らんとビュッとこのマンションに来たんか? お疲れやったなあ」
「……ヒロシ、誰に関西弁教わったの?」
と、まあいろんなやりとりが続いたわけだけど、ヒロシの話を要約すると、こういうことだった。
*
ある日、すすきののわたしたちが同棲していた部屋に、ヒロシが以前勤めていた闇金会社の先輩が2人やってきて、ヒロシを連れ去ったと……ここから話は始まる。
ヒロシはその会社を円満退社したとわたしに言っていたけれど、それはウソで、本当は仕事を全部途中で放棄して、ある日ふらっといなくなった(で、京都でわたしと同棲を始めた)。
そのときヒロシは会社から100万円を借りていて(わたしがいた大阪のセクキャバに通うために会社から借りたお金だ)、100万円を借りたまま行方をくらましたわけだから、当然会社の人たちは怒っている。
ひとしきりヒロシを探し回った会社の人は、ある日、すすきのから歌舞伎町に出稼ぎに来ていたデリヘル嬢から、ヒロシらしき男がすすきのにいると聞かされて、すすきのに飛んだ……すすきのの歓楽街で聞き込みをしたら、ヒロシとわたしが同棲しているマンションを知っている人に偶然出会い……間抜けなヒロシは、すすきのの部屋で寝ていて、寝込みを拉致られた……。
その後、歌舞伎町の事務所でヒロシはボコボコにされながら、わたしのことやヒロシ自身の仕事のことを全部白状し(ヒロシは口がゆるすぎるんだ)、挙げ句、スマホをバキバキに壊されて、わたしと連絡が取れなくなった。
でも、会社から100万円を借りているヒロシは、会社からすれば「優良顧客」だから、会社とすれば、ヒロシに働く先を紹介してやって、借金を毎月返済させようとした。
で、そこの闇金のグループである、大阪は梅田のキャバクラのボーイとして週3日働いている。あとの4日は同じくグループ会社のふぐ料理屋のキッチンで働いている。毎日関西人と一緒に働いていたら、関西弁が伝染ってしまった(関西弁って伝染るものらしい!)。
わたしの電話番号は、歌舞伎町の事務所に、ボコボコにされたヒロシがひとりきりになったときに、先輩のパソコンをこっそり操作して調べ、それをメモしたからわかった。
ざっとこんなことだった。
*
ひと通りヒロシが話し終えてから、わたしは狭いキッチンに行って熱いお茶を入れた。ヒロシになんて言おうか考えるのに時間を稼ぎたかった。
わたしはもう少しデリヘルの仕事を続けたいと思っている。大阪のデリヘルなんて、風俗の求人サイトで探せばいくらでもあるし、30歳も近いと、人妻じゃなくても人妻専門のデリヘルに在籍することだって多分できる。べつに人妻専門のデリヘルにこだわっているわけではないけれど、29歳と6ヶ月のわたしにふさわしいお店って、きっと人妻のお店だろう。
ヒロシと同棲をしてもいいと思っているわたしがいる。それは昔から変わらない気持ちだ。
では結婚は?
結婚?
結婚?
わたしは熱いお茶をヒロシに出しながら「ヒロシさあ、あんたの借金さあ、100万円だけなの? ほかに借金はないの?」と聞いた。
「ああ、100万円だけや。それを返し終えたら無借金やで! ええやろ」
「ねえ、その中途半端な気持ち悪いイントネーションの関西弁、やめてくんない?」
「せやな」
ヒロシはわたしが初めて見るがっしりとした太い腕でお茶をすすりながら答えた。ヒロシはきっと、すすきので拉致られてから、けっこう頑張って借金返済のために仕事してきたんだろうなと思った。わたしが知っているヒロシはもっと華奢だった。そりゃあそうだろう、借金返済のためには、男子だって肉体を酷使しないとね……でもヒロシのことが頼もしく思えた。
「ヒロシさ、わたしがその100万円の借金返してあげるから、わたしと結婚しない?」
500万円分の母性本能をヒロシのために使おうと思って、わたしは大阪にやってきたのだ。それに30歳までに1度は結婚しておきたかった。さらに歌舞伎町のホストにハマっていた頃のわたしと、今のわたしはなにも変わっていないし、変わる必要もないように思えた。
だから、友だち以上恋人未満というヒロシとの関係を綺麗にしようと思えば、「ま、結婚してもいっか!」ということになる。
だって、結婚って、そんなに美しいことじゃないじゃない!
風俗でバイトをしていたら、それくらいのことは簡単に理解できるようになる。愛にロマンを託して……なんていう、砂糖の上にはちみつを垂らすような発想をするのは、たいてい風俗初心者だけだ。
わたしの問いにヒロシは簡単に答えた。「ああ、ええで」
「ええでじゃなくて、ちゃんと答えて!」
ヒロシはわたしの前に正座してちゃんと答えた。「ぼくは優子ちゃんのことが、出会った日からずっと好きです」
というやりとりがあって、わたしたちは部屋の明かりをつけたまま、本当に久しぶりにエッチした。ヒロシの全身には、うっすらと筋肉が乗っかっていて、以前よりかっこよくなっていた。彼の体温は、昔のままだった。
*
エッチが終わったあと、わたしはヒロシの胸に頭を乗せて「ヒロシ、かわいいね」と言った。
たしかにわたしはヒロシのことがかわいいと昔から思っているけど、どこがどうかわいいのかと聞かれたらうまく答えられない。でも、ま、いっか! 母性本能って、本能というくらいだから言葉にならないんだ。
「ねえ、ヒロシ、お願いがあるの」わたしは小さな声で言った。「ヒロシさ、わたしと結婚するまでにキャバクラのボーイを辞めて、ふぐ料理屋のキッチンだけで働きなよ、わたしが100万円返済すればそれはできるでしょ?」
「うん、多分できると思う」
「でさあ、わたし、結婚するまで、大阪のデリヘルでバイトするよ。でもさ、アリバイ会社があるから、両親にはバレないからさ! どっかの貿易会社の事務員かなんかってことにしてくれると思うから、そしたら、ふぐ料理屋さんで働く男と、貿易会社の事務をやっている清楚なOLが結婚するってことになって、なんとなくいい感じでしょ?」
「優子ちゃん、相変わらず頭いいね!」
「ヒロシが鈍いだけや」こう言ったとき、関西弁がわたしにも伝染り始めていることを、わたしは初めて認識した。
*
大阪の梅田にあるデリヘル(人妻専科とかっていうところ)での仕事は、仙台のお店よりもっとアットホームだった。
お店の決め手は、もちろん風俗の求人サイトだけど、お店の男性用のホームページもすごく大阪的でよかった。
ホームページのトップページに、店長からのメッセージがあり、そこにはこう書かれてあった。
「日々、お店の女の子と楽しく遊んでおります。もちろん妄想で……ったく、もう」
で、お仕事のこと?
関西人って、わりとひそかに計算高いところがありつつも、人と会っているときは常に「フロイデ!」って感じで、仕事がしやすかった。
フロイデ?
そう、フロイデ! 今この瞬間を一緒に生きている歓びを分かち合うのが風俗の現場なんだよ……昔、わたしにお客さんがこう言った。
男はみんな淋しい生き物なんだから、家庭があっても風俗で癒してもらいたいと思うものなんだ……昔、別のお客さんはこう言った。
関西のお客さんは、そういう理屈は言わない。
「ねえちゃん、ホンマは人妻ちゃうやろ? そんなに美人やったら、男を選ぶだけで一生かかってまうもんな」
お客さんに指定されたホテルに行くと、たとえばお客さんのこういう言葉が最初に飛んでくる。ホテルの部屋のドアを開けた瞬間にだ。
「ありがとうございます」とわたしが標準語で答えると、
「ホンマべっぴんさんやなあ……ねえちゃん東京の人?」……「いいえ」とわたしが答えると、
「ホンマのこと言わないと打つで! バァン!」指を銃のようにしてわたしに向けてくる。わたしはこういうときは倒れて死んだふりをしろとヒロシに教わっていたから(これが関西の流儀らしい)、ホントに倒れて死んだふりをする。するとお客さんは、
「ねえちゃん、おもろいな! 一緒にシャワーしよ! あ、30分延長するわ。10万円札1枚出すから、お釣りはいらんで、とっとき!」と、こんなかんじ。
これのどこがフロイデ! でないと言うのだ!
「ねえちゃん、また指名するから、また一緒に遊ぼうな」
ホテルの出口でお客さんにこう言われたわたしは、お客さんに軽くハグをして別れた。
*
わたしはヒロシと、おそらく来年結婚すると思う。わたしたちの中で、なんとなく来年には結婚しようという雰囲気になってきているから、きっと来年の今頃には結婚すると思う。
でも、きっとわたしはヒロシに内緒で、週に1回くらいデリヘルでバイトを続けると思う。
ヒロシのことは好きだけど、そしてわたしが持っている母性を限りなく注いであげたいけど、やっぱり風俗のバイトも好きだ。
風俗のお客さんって、とても素直で、とてもやさしい人が多いとわたしは感じる。もちろんイヤなお客さんだってときにはいるけど、それはどんなお仕事だって同じだろう。そういうときは、お客さんには悪いけど「早く時間が終わらないかな」と思っていれば、どうにかなる。時間は前にしか進まないのだから。
いいお客さんと出会ったときの「フロイデ感」がわたしは好きだ。つまり、今この瞬間を一緒に生きていることを分かち合える歓びを全身で感じ合えることが好きだ。エッチなことだって好きだ。
だからわたしは、少なくともヒロシの借金を肩代わりした分、つまり100万円を大阪のデリヘルで働いて貯めるまでは、ヒロシに内緒でデリヘルの仕事を続けるだろう。
*
わたしの物語はこれでおしまい。
今、風俗の求人サイトを見ながら、風俗のバイトをしようかしないでおこうか迷っている人に、わたしが言いたいことはたったひとつ。
きっと大丈夫だってこと。
わたしがホストにハマったり、買い物にハマったりして借金ができて、しかたなくデリヘルのアルバイトを始めたように、おそらく多くの女の子は、なにか人に言えない理由があるから、風俗のバイトを探していると思う。
あるいは人に言える理由だけど、言っても誰もどうにもしてくれない理由(たとえば大学の学費を自分で稼ぐために風俗のバイトをするとか)で、風俗のアルバイトを探している女の子もいると思う。
はたまた、昔のわたしのように、とくにやりたいことが見つからないから、とりあえず貯金だけは作っておこうと考えて、風俗のアルバイトを始める女の子もいると思う。
風俗のバイトを初めてしまえば、親や彼氏にバレるんじゃないかと心配している女の子もいると思う。
風俗の世界にハマってしまえば、金遣いが荒くなって一生結婚できないかもしれないと不安に思っている人もいると思う。
エッチなことが気持ち良すぎて、いろんな男の人とエッチなことをしたくなるから結婚できなくなるかもしれないと不安に思っている人もいると思う。
でもね、きっと大丈夫。きちんとしたお店は、きちんと女の子を守ってくれる。
風俗店で働いている男子スタッフや、そこに来るお客さんは、ごくふつうの人たちだ。ごくふつうの生活を送っている、ふつうの人たちだ。
言ってみれば、ごくふつうのわたしやあなたと同じ人が、偶然、なにかの都合で風俗店で働いているにすぎない。
だからきっと大丈夫。
そして、やりたいことが見つからない女の子だって、きっと大丈夫。
やりたいことは、そのうち、その胸に湧き上がってきます。
湧き上がってこなかった、来なかったで、自分がしあわせと思えるしあわせに、いつか恵まれます。だって、日本国民全員が、自分がやりたいことを見つけて、それに生きなくてはならないなんてこと、ないでしょう?
とくにやりたいことはないけれど、ふつうに仕事をして、ふつうに子育てをして歳を重ねてゆく……これだって、相当すばらしいことなんだ。
だからきっと大丈夫。
風俗の仕事をしたら、他人にどう思われるか、ではなく、自分がどう感じるか、を大事にしていれば、あなたのことを好きになってくれる人がきっと出てくる。
なぜなら、人はその人の感じ方を見ているから。
つまり、なにか物事が起こったときに、その人がどう感じてどう動くのか、というところを見ている。そしてそれを、人は「その人らしさ」と言う。
だから、自分の感じ方を大切にできる人は、きっとどのような仕事をしても、数人以上のファンがついて、その人たちがリピーターとなってくれて、楽しく稼ぐことができる。
だからこれから風俗のお仕事を始めようと思って、求人サイトを見ている人や、風俗業界の中でお店を移りたいと思っている人は、自分の感じ方を大切にすればいいと思う。
風俗のお仕事なんてイヤだなと思えば、やらなきゃいいし、少しでもいいなと思えばやってみるといい。
他人があなたのことをどう見るか、どう思うか、ではなく、自分がどう感じるか。これが風俗の世界のすべてだとわたしは思う。わたしはそうやって自分の世界を変えてきた。
でも、自分の感じ方を大切にするって、みんな、毎日ふつうにやっていることだよね。
お腹がすいたなあ~とか、今日はエッチしたいなあ~とか、太ってもいいから今夜はスイーツを食べたいなあ……で、ダイエットは明日からね……みたいなことと同じことなわけじゃない? 自分の感じ方を大切にするって、そういうことだよね。
だから、女の子ってみんな、すでに自分の感じ方を大切にしながら生きているよね。
だからきっと大丈夫。
『世界が変わるとき』 完―――